http://www.amazon.co.jp/現代アートを楽しむ場所といったら
あらゆるアートシーンの文脈
そのすべてを余すところなく堪能したいと思う人々の
優雅なサロンのようなところ・・ なのかもしれない
大富豪でアートマニアみたいな人たちがこぞって
美しくも不可解な文脈で綴られた知的パズルを解読するという
そんな富豪家たちの遊戯を想像してしまう
村上隆氏のアートを久しぶりに見てふと思い浮かべた
以前ここで書いたエマニュエルベアール主演の
映画「変態島」だ
「変態島」は内容が奇妙ではあるものの 真面目なフランス映画だ
このシリーズの前作は多くの賞を受賞している
変態というのも誤訳というかなんというかw
変態シリーズなので変態らしいのですが いわゆるエッチな映画ではなくw
フランス語の原題は「魂」というタイトルなので 変態映画ではないです、はい。
フランス映画らしいといえば実にそれらしい
アートっぽいし哲学っぽい そしてなんとも不気味な作風で
なぜかジャンルはホラー 不可解で解読不明な映画だ
「変態島」のレビューにも書いたことなのですが
ヨーロッパにおける世界とはヨーロッパのことであってそれ以外は「圏外」
つまり、オリエンタル(東洋)とは彼らにとって「非世界」であるということ
意外に思われるかもしれないがこれは事実である
これが分からなければ「変態島」のようなフランス映画のみならず
「現代アート」も解読できないのではないか、とも思う
現代アート POPとかファインとかコンテンポラリーなどの類
そこに参加する もしくは それを理解する には
「圏外」であるオリエンタルの場所から
西洋圏という「とある別の世界」つまりは「非世界」に
わざわざ接続しにゆかねばばならない なんとも面倒な話だ
そこに接続するインフラは整っていないと思っておいたほうがいいし
こちらは圏外なので基本繋がるはずもなく
接続するのにはけっこうな 手間と労力と時間とお金 がかかるだろう
そういう意味でも村上隆氏は強靭な開拓者である
つまり、西洋という「オンラインネットワーク」があったのだととしたら
日本は「オフラインネットワーク」くらいに思っておいたほうがいい
これが大前提なのだ
http://www.amazon.com/村上隆氏の作品はまるであのフランス映画と似ていて
なんとも不気味で 後味も悪く 嫌~な余韻が残る
この不快感を覚えるような作風と 不可解な文脈は
オフラインからわざわざオンラインに繋げるみたいな面倒なことをしない限り
なかなか難解で分かりづらいものなのかもしれない
村上氏はいう
「俺は日本以外の人たちに日本のオタクの文化の
翻訳作業をしてゆく心構えがある。」と
現代アートは西洋の文脈で語られているため
村上氏は日本の美や文化の翻訳を試みながら
西洋の言語でもってアートの舞台で自分語りをしているようにも見える
文脈とはなにか? 「道筋」いわば「筋を通す」ことだ
西洋には西洋の筋がある
西洋にとってのオリエンタルな姿は本物のオリエンタルの姿ではない
むしろそれは当然のことで
日本人が本質的な西洋の姿を知らないのと同じことだ
言いかえれば 西洋にとってのオリエンタルの解釈は
変容したオリエンタルの姿を眺めているにすぎず
彼らの文脈からすればその変容した解釈こそが必然なのかもしれない
日本人もまた本来の姿とは違う変容した西洋を眺めているわけで
それもまた同じなのだ
村上氏は西洋人が眺めている変容したオリエンタルを描きつつも
西洋の文脈でもって
オリエンタルへのテーゼその問いかけをしているようにも見えるし
それは西洋のアートシーンへの回答(アンサー)のようにも見えてくる
すなわち、日本というオフラインネットワークからみれば村上ワールドは
西洋人のフィルターで眺めた日本の姿を描いているにすぎず
西洋人にとって懐に落ちる物語を描いているにすぎないのだ
なのでオフラインネットワークに居る日本人が
オンラインネットワークの中で実に流暢な西洋語で
自分語りをしているムラカミタカシを見れば
誤訳がやたらに多い激烈な翻訳者であると感じうるのは
当然といえば当然なのかもしれない
が、これもまた「非世界」つまりオフラインネットワークからみた
印象論にすぎないのだとおもう
日本人からみて誤訳があっても支障はないのだ
なぜならオリエンタルという存在自体が
既に西洋では変質したカタチで存在しているのだから
私は村上隆氏の[FLOWER MATANGO]という作品が好きだ
日本画に平面的に描かれているようなツル状の花が
安っぽい不気味なツボ?のようなものに生けられていて
(生えていて?)そのヒラヒラと生けられてしまった
小さな花たちが立体になってしまった姿はなんとも滑稽で
ブサイクでもあり可愛らしくも見える
その不気味なキャラクターはともかくとして
構図は美しい
(ただちょっと計算高い それが気になる
作為的すぎるがそれも計算のうちなのだろう
村上作品に描かれている何とも奇妙な
・キャラクターのようなもの
・アニメのようなもの
それはウォーホルが象徴したキャンベルスープのように
戦後日本のカルチャーシーンの中で
人々が切り開いていったポストモダニズムを象徴する
まるでシンボルマークのようにも見えてくる
村上隆「FLOWER MATANGO」2001-2006
http://www.amazon.co.jp/村上アートはフラットという
極めて日本的な芸術のアイデンティティーが根底にある
そのフラットなアイデンティティーは
[FLOWER MATANGO] のように
ベルサイユ宮殿を背景にすることで
空間芸術として開花する
これはニッポンのポストモダニズムへの
肯定なのか否定なのか 賞賛なのか嫉妬なのか
貨幣への執念がつくり上げたものなのか
実状はわからないが
この作品の中には
どこか彼のセンチメンタルな部分が見え隠れしている
私にはそのように見えた
私にはベルサイユ宮殿を背景にして
[FLOWER MATANGO]がはじめて息を吹き返したのではないかとおもえた
・中世で栄華を極めた西洋貴族芸術を背景に存在する
・アメリカの民主的なPOPアートを土台とした
・次のステージであるポストモダンを彷彿とさせるような
・日本の姿(カルチャー)であるようでいてないようなもの
これらの物語をアートとして表現することによって
テーゼやアンサーを投げかけているようにも見える
そこには
・アニメらしきもの
・キャラクターらしきもの
つまり「ニッポンのイメージ=象徴」が描かれているだけにすぎず
実はフィギュアのような造形自体はそれほど問題ではなくて
イメージを思想化し アート的な技法や作法に従って描かれ
アートという土俵の上で筋を通している
私にはベルサイユ宮殿を背景にして
何かがくっきりとした道筋を描いたようにも見えた
ベルサイユ宮殿の開催は賛否があったらしいが
これは訪れるべくして訪れたのではないかと思う
とはいえ 反論があることも事実で
たとえばフランスの保守派やオタクの言い分も 私には分からなくもない
私も日本のポストモダンカルチャーを好むひとりとして
少しばかりはマニアックでオタク的な解釈を面白いと思う時があるからだ
村上アートにはニッポンのオタク文化が
まるで貶められるかの如くデフォルメされていて
もちろんそれは西洋の文脈に従ったものではあるものの
オタク達にとってはそれは 「閉ざされた文脈」 であり
そこに強烈な違和感を覚えるからだと思う
芸術は富豪家たちの遊戯である
けれど美術館やベルサイユ宮殿はすべての人に門をオープンにしている
POPアートの世界でもそれは同じで
その栄光を手にするのはたった一人ではあるものの
多くの大衆の喝采によって見届けられる
しかし、村上氏の描く世界は
日本のポストモダンカルチャーの中にいる「大衆」と
全く共鳴していないのだ
村上作品は
オタク ポストモダン カルチャー というカテゴリーをモチーフにしながら
マネージメント色を浮き彫りにしているという特徴がある
経営色が濃い以上「あざとさ」みたいなものが
見え隠れすることは必然といえば必然だし
その主張なくしてPOPアート界では
もはやアートを表現できないところまできていてしまって
まるで弱肉強食の生存競争のごとく繰り広げられている
アメリカンアートの中で 日本人がランナーになりきれない現状を
村上氏は憂いているようにも見える
・日本のカルチャーはそれなりにぶっとんでいて息ずいていて
・日本の政治や経済(マネジメント)は抜け目なくよどんでいる
村上作品にはこの2つの対比をビビットに象徴しているようにも思えるし
一見前者を反映しているように見えて
どちらかといえば後者を反映しているのかな、と思ってもみたりした
なぜなら村上作品から聞こえてくる思想は
極めて 「アメリカ的な "日本不在" の物語」 だからである
これはまさに戦後の日本そのものでもある
言葉が何度も重なってしまうが
西洋の文脈からしても「日本不在」は必然である
アートとは孤立した西洋世界の物語だからだ
西洋の文脈 その道筋にあるもの
そのひとつに 観念主義(イデア)があると思う
「Idealismは、日本では訳語が一定せず、
存在論においては唯心論、認識論においては観念論、
倫理学説においては理想主義と訳し分けられていた。」wikiより抜粋
プラトンが説いた善のイデア
それは太陽にも喩えられているそうだ
「イデアと美の関係」は理性的でとても筋が通っていてわかりやすい
プラトンは三角形を「イデア」と呼んだ
三角形を誰もが容易に想像することができる
紙の上に簡単に正三角形を描くこともできる
正三角形は実に美しい がこの世に完全なる正三角形は存在しない
顕微鏡で調べればどこかが歪んでいるはずだ
人は頭の中でイデアの完全な美を思い浮かべ陶酔する
けれどそれを否定したいと思ってしまうのも人の性
「この世に正三角形など存在しない、机上の空論だ!」
人は実に矛盾した生き物だ そして葛藤する
ちょっと抽象的すぎる話になってしまったのでので少し目線を下げてみると
西洋人にとっての美学とは「逃れられない物語」でもある
簡単にたとえるなら宗教だ
西洋の特徴として知性 美学などの自意識のなかに「神との契約」がある
これは西洋人にとっては絶対に逃れられないものだ
(デモクラシーや憲法でさえも「神とのあの契約の場所」に立ち戻らなければ
筋が通らなくなる)
おそらくアートシーンにおいてもこれは同じだろう
もっと簡単にいうと・・
愛欲や性は西洋人にとっては「恐怖」そのものであるということ
旧約聖書の出エジプト記「十戒」や
ダンテ「神曲」の7つの大罪などが分かりやすい
いい歳をした大人が読んでも胸を刺すようにその恐怖が襲ってくる
性に淫らになることへの恐怖が襲ってくる
なのに日本人はいともたやすく 何の恐怖を感じることもなく
誰からも恐れることなく あのような卑猥な性表現をしてしまうこと
そして村上氏がそれをデフォルメしてある種のテーゼとして描くこと
西洋人にしてみればこれはこれで懐に落ちるのかもしれない
西洋人はたとえ宗教観が無いという人であっても
宗教的観念は必ずどこかでつきまとうはずだ
日本人の無宗教者であっても どこか心の奥で
「お天道様が見てるから盗みはできない」 みたいな
そんな無自覚な観念にも似ている気がする
日本人はよく言えば寛容 悪く言えば鈍感で
実は卑猥なロリコンのパンチラであっても
彼らは何も悪びれることなく
しかもそのメタファーを解読できない女性達からは
なぜか「カワイイ」と変換されてしまい
彼女達は何もなかったようにそこを通り過ぎてゆく
たとえばトトロのメイちゃんのパンチラみたいな話だ
宮崎駿の作品にはマニアックな性的嗜好が
意図的に隠蔽されているのは有名な話だ
トトロでの家族の入浴シーンはアメリカでは完全にNGである
西洋人にとってみれば
日本人にとっては そのぐらいいいじゃない 的な性表現でさえも
ダイレクトに恐怖を感じてしまうらしい
つまり極東に浮かぶオリエンタルのとある島国は
不気味なほど「自由の国」なのだ
西洋人は神と闘いながら自由を勝ち取ってきた
時には血を流し 贖罪を背負いながら・・
えげつなさ(日本の性カルチャーの象徴)
→ 神への冒涜
そのバックグラウンドにある中世のヨーロッパ美学(宗教)への葛藤
→ デモクラシーによって精神が開放されるわけでもないし
ほんとうの自由が訪れるわけでもない
それなのに日本はいとも簡単に「自由」を獲得し謳歌している
これは神への冒涜なのだろうか
→ ただの変態なのだろうか・・w
これは意外と冗談でもなく 西洋ではけっこうリアリティーがある話だと思う
この例えはアートの文脈というよりも
どちらかといえば観念に近いのかもしれない
どんな巧みなアートの技法を駆使したとしても
それだけで物語は人々の懐に落ちるはずもない
今やアートといわれる世界は
既存のすべてに筋道をたてて
既存をかたっぱしから否定しているようにも見える
その否定の対象は イデア(観念主義) さえも例外ではない
現代アートとは
「美しさ」もっといえば「知性や品格やイノセンス」という
ひらたい言葉だけで語る時代はとうの昔に終わってしまっていて
思想という文脈 その道筋をくっきりと描き出し
いかに懐に落とすか (村上氏的にいえばいかに銭を落とすか)
みたいなステージに入ってしまっている
村上氏が商業的であることが批判の対象になっているが
これは村上氏の問題ではなく市場の問題である
もしそれを否定したければ
説得力のあるアートの文脈でもってソレを否定すれば
(もしくは否定してくれる人が現れれば)いいだけのことだ
西洋人がみる日本のポストモダンは
サブカルにドはまりしてしまったガイジン達などからすると
まるで未来のSF映画にでも出てくるような姿に見えるらしい
秋葉原や原宿は日本人にとっては雑踏にしかみえないが
ポストモダンを知ってしまった西洋人からは「新世界」に見えるらしく
おそらく西洋人にはこれからも築き上げることは困難であろう「自由の姿」が
そこにはあるように見えるらしいのだ
本当のアメリカは実は全然自由ではないらしく
アメリカの自由の正体はカウンターカルチャーのステレオタイプに過ぎず
実は西洋人の心の奥底には 日本の自由に対して嫌悪と羨望にも似た
ジェラシーがあるのだとも聞いたことがある
もしかしたら村上アートに潜むものも同様で
そこには西洋人の心の奥底にある
自由への葛藤と東洋への許容が 嫌悪と羨望とでないまぜとなって
村上氏の描く得体の知れない「難解な記号」となって
不気味な姿で忽然と現れたもの、であるのかもしれないのだ
これは「ニッポン不在の物語」であり
西洋人の為のオリエンタルのテーゼである
西洋人が眺める日本のポストモダンカルチャーは
「得体の知れぬなにか」であり
村上作品はそれを一見もろだしで表現しているようでいて
実はとても皮肉めいているのだ
コレクター達にとってそれは美しくも奇怪なパズルのようなもの
なのかもしれないし
それはまるで西洋人がオリエンタルを見るまなざしにも似ているような気もする
だからこそアートシーンでは
アイロニカルなアンサーとして誰かが翻訳せねばならないのだろう
村上氏は実力のある翻訳者 もしくは西洋の為の意訳者で
西洋の抱くオリエンタルへのテーゼの「代弁者」のようにも見える
ゆえにアートシーンに強烈なヒットを飛ばせたのではないかと
村上氏は実に実直な人物だと思う
オタク文化を如実に書ききれなかったこと
そしてアート界に転向していったことを赤裸々にニコニコで語っていた
村上作品からはジェラシーにも似たセンチメンタリズムのようなものを感じる
表現者とは
センチメンタルな旅路を行き交う彷徨い人のような人々のことだと思う
東洋のオフラインネットワークに居る住人の一人として
まだどこか燻るような現代アートへの思いがあるものの
あのオンライン世界へ接続するのが難しい以上
私にはアートを解読できるはずもない・・と思うほかならないのです
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